↑写真1…景福宮
少し前の話になりますが、我が日本の母が久しぶりに韓国の我が家に来た時のことです。我が母や毎回、来るたびごとにはまっている韓国ドラマが違うのですが、その時はドラマ『宮』にはまっていたということで、景福宮などの宮を順に観光してのですが、自然に歴史の話となってしまって、私たち日本人はやはり、ただ単にドラマだけを楽しんでいてはいけないんだ、という雰囲気になりましたよね。
ということで、その時の思いを中心として、ソウルの人気の観光地である、景福宮や徳寿宮、明洞の中央銀行にまつわる内容を、史実に忠実に少し書いてみようかと思います。
●前年から企図された王妃暗殺
実際、私たちが手放しに美化する傾向がある明治維新ですが、その時の「尊王攘夷」が、明治政府出発以降には「征韓論」となって、1873年には、具体的に西郷隆盛を朝鮮に派遣することまでが決定されます。
ところがそれにストップをかけたのが、同年、欧米社会の思想を学んで帰国した岩倉使節団の反対でした。すなわち、国際法によれば、他国への主権侵害を許されないという国際社会の常識が伝えられ、結果として、「征韓論」という言葉は影を潜めますが、その熱狂のやり場は変わることなく、その後の日本の半島進出は着々と準備されていくわけです。
1894年、中国・清が、韓国国民の反清的な雰囲気を制圧するために、韓国の全羅道で起こった農民たちの乱鎮圧を口実に、高宗に対し、清からの派兵を要請するよう強要します。3、4回の執拗な要求に、「国際法に従ってソウルから200里以内には入らない」ということを条件として、高宗は要請を出すのですが、それを聞きつけた日本は、清よりも早く、8000人の兵力を韓国送り込みます。しかも、農民の乱が起こった南の全羅道に行くのではなく、いきなり、仁川から首都ソウルに侵入して、現在のソウル駅がある龍山に駐屯するわけです。
韓国が、明確な「国際法違反」を訴えたにもかかわらず、7/23、深夜0時半から7時半の7時間にわたって、日本は武力行動を取り、朝鮮軍との激しい銃撃戦も3時間にも及び、日本軍は王宮である景福宮(※写真1)にまで侵入しました。
王宮侵入の目的は、表向きは内政改革の要求とされており、真の目的は長い間ひた隠しにされていましたが、現代に至って、福島県立図書館で見つかった陸軍参謀部の書類によって明らかになっています。すなわち、「宮中からの閔族除去」――「宮中」の「閔族」は、当時、「閔妃」といわれた明成皇后しかいませんでした。
●「近代化の主人」高宗の光武改革
明成皇后は国際情勢に長け、高宗の外交力の要でもありました。
この時、日本軍の宮内侵入の知らせを聞いた高宗は、王妃に洋館のある乾清宮に避難することを勧めますが、賢い明成皇后は王と一緒にいることのほうが安全であると考えてそこにとどまりました。日本軍の捜索隊が、王のいた咸化堂に到着した時、王妃は高宗と共にあり、王が直接現れてその不法行為を訴えたため、日本軍はそれ以上、行動ができなくなった、と史料にはあります。
首都を去った日本軍は、二日後から日清戦争に突入し、翌1895年4月に勝利することで、台湾と遼東半島を手に入れますが、すぐに露仏独の三国干渉によって遼東半島を返還させられます。この三国干渉には、明成皇后が、ロシアやアメリカの外交官と接触することで、間接的に影響を与えたと考えられ、その結果、1年前の陰謀が遂行された形で、1895年10/8、王妃は殺害されます。駐在中の公使が首謀し、一国の王妃を王宮内で殺害する、という国際社会に類を見ない暴挙でした。
高宗は、王妃が殺害された現場であり、その後も、日本の包囲下にあった王宮では君主権を行使することができず、1896年2/6、ロシア公使館に避身します。そこで、1年間を過ごしながら君主権を回復し、1897年2月、別宮である慶雲宮(※現在の徳寿宮、写真2)に移って、ついに、そこから「光武改革」といわれる8年間の大近代化事業を始めるのです。
日本と韓国の近代化の出発を比べれば、日本は明治維新によって天皇を中心とした中央集権化を成し遂げるということが、その近代化の出発でしたが、いっぽうの韓国は、中央集権化自体はすでに500年も前になされており、その上で、清国や日本という他国の干渉を振り払って、まさに独立した「近代化の主人」を明確にする「称帝建元(皇帝を称して独自の元号を建てること)」が、その近代化の出発でした。
1897年8月、高宗は独自の年号を「光武」とし、天子が即位する場所である「圜丘壇」を築いて、10月12日に「登極儀」をもって「皇帝」に即位するとともに、国号を「大韓帝国」とします。
その後、日本によって国を奪われるまでの、わずか8年の短い間に、韓国がまったく自力で、強力に近代国家体制を築いていったその過程を私たちは心に深く刻まなければならないでしょう。
すでに一度少しだけ書きましたが、それが、国家基本法である「大韓国国制」を制定し、「大韓天一銀行」を発足したこの年1899年に成し遂げた、東京より4年早い首都ソウルの電車開通であり、1902年に着工され、現在の主要線がすべて計画されていた全国鉄道網であり、米国のワシントンDCをモデルにしたソウルの都市計画でした。後の日本の朝鮮統監府や朝鮮総督府による近代化は、あくまでも高宗が着手していたそれらをそのまま推し進めたに過ぎないというのが事実であるわけです。
●「日本が近代化した」という錯覚
しかも、その8年間は、完全に自由な状況などではなく、むしろいつも日本の妨害の中にあったわけです。たとえば、韓国の銀行制度をみてみましょう。
高宗は、既述したように1899年1月、国庫銀行としての役割を果たす「大韓天一銀行」を、皇室の英親王を総裁として発足します。同じ年、イギリスを皮切りに世界金融が金本位制に変わったのを機会として、金を買い入れて紙幣の兌換性を保証する計画を立てて、日本に500万円の借款を交渉しますが、あっさりと拒否されます。
苦労の末に、2年後の1901年、フランスから借款の約束を取り付けますが、これを、また日本がイギリスを動かして妨害し、破棄にまで追いやってしまいます。
翌年、韓国は「中央銀行条例」を出版し、「中央銀行」(日本の日銀に当たる)設立のために、皇室が敷地を提供して、設計図も完成させるのですが、ところが、日本は引き続き借款の交渉に応じないばかりか、韓国の商人たちが300万円を政府に送付しようとしたのを妨害したという資料もあります。
結果、現在もソウルで韓国銀行本店として使われている同銀行の建物(※写真3)は、日韓併合後の1908年になってから、日本の朝鮮統監府が建てたことになっています。当然、韓国人はその事実だけを記憶していますし、その建物を見ながらも、「韓国の中央銀行は、日本が建てたのだ」というわけです。
しかし実際には、韓国政府が設計したものを若干修正して建てたに過ぎず、韓国の近代化の業績に他なりません。明洞と南大門市場の間にあるその立派な建物を見上げるたびに、私はいつも、「これはやはり韓国の“近代化の主人”であった高宗が建てたのだ」という込み上げる思いを感じます。
↑写真2…現在の徳寿宮
↑写真3…韓国銀行本店
武藤克精
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