韓国の方々を案内して渡った山口の錦帯橋です。前回ここで、“ある出来事”がありました。
●韓国人を日本に案内する時のジレンマ
日韓の文化の違いについては、我がポッドキャストのほうで話していますが、今回、韓国の方々を日本観光に案内しながら感じたことを少し長く書いてみようかと思います。実際には、両国の歴史や文化に関するもっと長い説明があって初めて納得できることなので、詳しいことは「サランヘヨ・ハングンマル」の「韓国文化の部屋」をご参照ください。
韓国文化の基本を簡単にいうと、人間は「家族」だ、ということになります。それで社会の他人でも、近い関係が形成されると「兄さん」や「姉さん」と呼ぶようになるし、それゆえに年齢差が最も重要な情報であり、食堂のおばさんは皆、「イモ(母方のおばさん)」と呼ぶし、日々の挨拶も、朝なら「よく眠れましたか?」か、「朝ご飯食べましたか?」、昼なら「昼ご飯食べましたか?」、夜なら「夜ご飯食べましたか?」であったわけです。最近はたしかに「アンニョンハセヨ?(安寧ですか?)」に取ってかわりつつありますが、これは「ハロー」に合わせてここ数十年間に定着した新参の挨拶だといえます。
ところが、日本文化や欧米文化における社会関係の基本は、人間は「他人」です。それで、「他人に迷惑をかけてはいけない」、「他人の権利を侵害してはいけない」ということが基本になり、日本の「規則」、西洋の「マナー」などという言葉もすべて「他人」を基本とした言葉です。それゆえに、行動原則も「理性」が最優先にあり、「知」が先の「知→情→意」ということになります。それに対し、韓国人の場合は基本が「家族」なので、「情」が最優先となり、ひとたび情関係ができると、人間関係は「情→知→意」で対応するようになります。基本的には、私たちが家の中でそのように行動しているのと同じ行動原則です。
さて、こういった文化の違いが日韓両国の根本にあるというときに、実は韓国の方々を日本観光に案内すると、私自身はこの二つの文化の違いによるジレンマで、日本人と韓国人、両方に対して「申し訳ない」という思いでいっぱいになります。旅する韓国人の心情も、旅先で出会う日本人の心情も、両方共によく分かるからです。
●そこに込められた「家族の情」の強さ
何よりも、旅行中の韓国人の頭の中にあるのは、その旅行に送り出してくれた「家族」の情だといえます。それは実の家族や親族もそうだし、家族的関係にある社会の同僚たちも、笑顔で送り出してくれながら、「私」がこの期間だけは日常を離れ、家のことを忘れて、とにかくて楽しく遊んで、最高の喜びを経験してくることを願っています。すなわち、大げさにいえば、旅行中の一瞬一瞬は、ふだんできない願いを叶えて、無邪気な情で「楽しかった!」といって帰ってくることを願っている家族のための時間でもあるわけです。
それゆえに、日本人から見れば、韓国人観光客はとにかく「うるさい」です。そして、行く先々が台風が過ぎていった後のようになります。なぜそうなのか。「旅行」だからです。
旅行する仲間同士もまた、たとえ他人同士で集まっても、すでに一緒に旅をする「家族」となって、一緒にいられる短い間に、もう二度と結べない「家族」の情で、遠慮のない大きな声で、一言でも多く会話をし、とにかく羽目を外して、二度とない短い「絆」のドラマを作ろうとします。韓国人にとって旅行中の「沈黙」は、もったいない意味のない時間に過ぎず、すなわち、韓国人観光客はそこに込められた「家族の情」の強さゆえに「うるさい」のです。
もちろん私は韓国の方々を案内しながら、一番最初に必ず、「ローマに行けばローマに従え」という話をします。ここは韓国ではなく日本なので、そのような旅行中の韓国人の姿を見て、日本人は皆どう感じるか。日本文化の視点では、それらはすべて「迷惑」になるのだ。日本では、他人の一人の時間や静かにしていたい権利を侵すことは許されないのだという話もします。
でもいっぽうで、そういいながらも、特に韓国の年配の方々が、それを忘れて韓国での旅行の時のようにふるまってしまう時には、注意してさし上げながらも、やはり申し訳ない思いにもなります。なぜなら、それでも韓国の方々は、日本に合わせてかなり、本来の韓国人にとっての旅行の楽しみを抑えているからです。本当だったら、走行中の観光バスの中は皆、立ち上がって喉自慢&ディスコ大会になってもおかしくないのに、日本では皆、それを頑張って我慢しているわけです。
●家族であれば「迷惑」が逆に喜びに
昔から日本の韓国文化の専門家たちは、「韓国人が近い人間関係を保つ方法は、相手に徹底的に迷惑をかけることだ」などと論じていましたが、この「迷惑」という言葉が難しくて、その感覚自体が日本人のものであり、もしも「迷惑をかけられることが心から嬉しい」という時には、それを「迷惑」と呼ぶべきなのかという問題になるわけです。
私たち日本人も家族の間では同じなのです。たとえば、自分の子供が高熱を出してうなっている時に、夜通し子供の額を冷やし続けて、朝になって子供がすっかり元気になったら、徹夜して体がつらいことも、その時には喜びと感じるのであって、「このことを記録して出世払いで時給で返してもらおう」という気持ちは起こらないばかりか、自分が子供のために徹夜できたことのほうを、逆に子供に感謝するわけです。韓国人はそれを、社会関係の「家族」に対しても感じるのだということになります。
前回、岩国の錦帯橋の向こうを観光した時に、一人のハルモニがバスに戻りませんでした。橋を渡るのは本来、通行料を払うのですが、係りの人に事情を話して、私が再び橋の向こうまで走っていって探してみると、私たちが回った途中の道で、ハルモニが不安そうに行ったり来たりされていました。話を聞いてみると、「脚が痛かったので、橋に戻ってくる時に一緒に戻ればいいと思って待っていた」というのです。ところが私たちが別の道を通って橋に戻ってしまったため、一人ぼっちで今か今かと待っていたというわけです。
ハルモニの手を引いて、かなり時間を掛けてバスまで帰ると、皆、拍手と歓声で迎えて喜んでくれたのですが、ただ一人ハルモニだけは自分一人のために全体を待たせたということで、「自分はどこに行っても決して集合時間に遅れたりはしないのに」といいながら、「すまない」、「すまない」と繰り返すわけです。それで私が話したことが、北海道の我が母のことでした。本当は近くにいて親孝行してあげたいのに、私が外国にいるためにしたくてもできない。今日、ハルモニの手を引いてゆっくり歩いてきながら、日本の母にできないことを代わりにさせてもらっているという気持ちで、心が嬉しくてありがたくてしょうがなかった。私はハルモニに感謝の敬拝を捧げたい気持ちだ、と。その言葉は、明らかにその場にいた他の韓国の同席者たちの思いでもあったからです。
●文化の「優劣」ではなく明確な「違い」
日本人の「理性」に従えば、不特定多数が使う公共の場は、細心の注意で使う前よりきれいにして行くのが当然ということになります。おそらく、韓国の人が温泉の洗い場や泊まった部屋を散らかしたままにして行くことがあれば、私たち日本人にはすぐに「考えられないこと」、「やっぱり韓国人は民度が低い」ということになるでしょう。しかし、それが韓国ならば、韓国の人たちの多くはその客たちの家族の情で、「ああ、のびのびと使って、心から楽しんで行ってくれたんだなあ」と微笑ましく思うわけです。子供が元気に遊んで寝てしまった後に部屋を片付けるお母さんと同じで、家族同士なら片付ける「迷惑」が「迷惑」にならず、それが嬉しくもなり得るのです。
もちろん、韓国人が「他人に迷惑をかけてはいけない」ということが分かっていないわけではありません。しかし日本人ほど絶対視していない理由は、何よりも最初に書いたように「人間=家族」という基本があるからです。いずれにせよ、それは明確な文化の違いであり、昔からまったく変わっていない、日本人と韓国人が出会った時に起こる古くからの誤解であるのですが、重要なことは、それを「優劣」とみてはいけない、ということ、それを伝えたくて今日は少し長々と書いてみました。
ここでは皆が私にソフトクリームを買ってくれるようとするのですが、とりあえず2つ食べました。
この橋をハルモニの手を引き、ゆっくりゆっくり歩いて皆が待つバスに戻ったことが思い出です。
武藤克精
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