韓国論考

なぜ、ソン・イルグクさんは泳いだのか?

ソン・イルグクさん

韓国の人が皆、「独島(竹島)問題」に、論理を超えて感情的にならざるを得ない理由は、それが日本に編入された当時の時代と経緯にあります。私たちも最低限それを知って対するべきでしょう。

今月10日、李明博(イ・ミョンバク)大統領が突如、竹島を訪問したことと関連して、多くの日本の韓流ファンにとって特にショックだったのが、その3日後の8/13に、歌手キム・ジャンフンさんを中心とする大学教授や韓国体育大の学生40人が、竹島までリレーで泳ぐという「8・15記念独島水泳横断プロジェクト」が行われ、そこに日本で人気のドラマ『朱蒙(チュモン)』の俳優ソン・イルグクさんが参加したことではないかと思います。

なぜ、日本で愛を受けている韓流スターまでが、そのような行動を見せるのか。震災の時にはあれだけ日本に思いを寄せてくれた韓国のメディアが、皆、それを支持しているのはなぜなのか。やっぱり彼らの心の中には、ふだんから日本を嫌う思いがあるのか。そのような疑問にお答えすべく、とても難しい問題ですが、特にこの「竹島問題」に対する韓国人の思いを、私が知るかぎり解説してみたいと思います。

●「光復節」になぜ「独島」に行くのか?

まず、重大な結論を先に述べておこうと思いますが、日本人ファンたちに愛を注いでくれる韓国のスターや、東日本大震災で温かい支援をくれた韓国国民のその「愛」と、このような問題は直接的な関係がないということです。すなわち一部の無分別なネトウヨは別としても、一般の国民においては、決して、「彼らは口では困難にあっている日本の国民を愛するようなことをいって、お腹の中では嫌っているんだ」ということではありません。

なぜなら韓国人なら皆、日本の人々や日本文化を愛することと、「独島は韓国のものだ」ということはまったく別の問題だからです。

韓国人にとって、この「独島問題」とはどのような意味を持ってきたのでしょうか。

まずは、今回のソン・イルグクさんが参加したイベントが8/15の「光復節」のイベントである、ということが重要です。「光復節」とは韓国の独立記念日であり、なぜこの日にあえてそれが行われるかというと、韓国人にとって、「独島問題」とは国家の独立の問題そのものだからです。

なぜ、そのような認識になってしまうのかという理由は、歴史的経緯の中にあります。私たちは竹島問題を単なる領土問題と考えます。しかし、韓国人は決してそうすることはできません。まず大きな違いは、韓国人が己の国の歴史を学ぶと、そこには一度だけ自国が地上から消えてしまったという時代があります。私たちが自国の歴史を学ぶ時に日本だけの独立した歴史を学ぶのとは大きな違いなわけです。

私たちの日本が「竹島は日本固有の領土だ」としている一番の根拠は、ご存知のように、島根県知事が1905年2/22付島根県告示40号をもって「自今本県所属隠岐島司の所管」と公示する形で、日本領土に編入された、しかもその時に韓国から抗議がなかった、というものです。

しかし、この1905年という年が韓国にとってどういう年かというと、すでに前年1904年に第一次日韓協約が結ばれ、日本政府が韓国政府内に顧問官を送って内政を牛耳っており、さらにこの1905年の11月には第二次日韓協約、いわゆる「日韓保護条約」が結ばれて、韓国の外交権を剥奪、事実上の「保護国」とした年、日本支配の象徴である朝鮮総督府の前身、韓国統監府が置かれた年です。

韓国からすれば、まさに国が日本の保護国体制下に入り、国権が奪われていくその第一歩として、竹島が日本領に編入されたのであり、しかもその編入の理由は、まさにその当時、1904年2月から1905年9月にかけて、朝鮮半島の利権を巡って行われていた日露戦争を有利に導くためでした。

●1905年、竹島日本領編入の経緯

日本側の資料に残っているその経緯はこうです。それは1904年、島根県の漁民であり企業家であった中井養三郎氏による、竹島の「貸下願」申請がきっかけでした。

中井氏は竹島での漁業を計画し、日本政府が韓国政府から竹島を「賃貸」してくれるように要請しに行きます。すなわち、当時は韓国領であることを前提としているわけです。事実、1900年当時、日本の漁民が、竹島で獲ったアワビなどに対する税金を鬱陵島の島監に支払っていたという記録が、韓国側の『鬱陵島節目』(1902年)だけでなく、日本側の公式文書である『釜山領事館報告書』(1900年、1902年)にも記載されています。さらに、1904年の日本の防護巡洋艦「新高」の航海日誌9/25付には、「韓人これを独島と書し」とあり、韓国側の名称が「独島」であるということも認識されていました。

その上で、中井氏が直接書いた『事業計画書概要』には、「本島(竹島)が鬱陵島に属し、韓国領であることを考慮し、将来、(韓国)統監府に行って話し合うこともあるのではないかと思って上京し、いろいろ努力した」とあります。

結果、内務省からは、「大海の一滴のような岩礁一つで、諸外国から日本が韓国に対して領土の野心を持つと疑われては何の得にもならない」といわれて拒まれますが、外務省の政務局長に会ったところ、日露戦争のために、「監視所を設置し、無線及び海底電信を通せば、敵艦の動きを監視するのになおさらよいではないか」と大賛成をもらい、「こういう具合に結局、本島は本邦の領土に編入されたのです」と、結ばれています。

すなわちその結果、日本の閣議が、「この無人島は他国がこれを占有したと認定する形跡がない」(これはもちろん正しくはありません)ために、日本編入は「無理のないこと」であるとして、1905年1/28、「竹島」と名づけ、「本邦所属」とすることを閣議決定。その指示に従って、島根県知事が2/22付島根県告示40号をもって公示、日本領に編入されたのです。

それが戦後すぐにはどうなるのか。1946年1/29、連合国軍のGHQは、日本政府に命令「SCAPIN-667」(スカピン667号)を発して、竹島を日本領から切り離し、同年6/29の「SCAPIN-1033」では、「日本人の漁業及び捕鯨業の許可区域」(通称「マッカーサー・ライン」)を設定して、「日本の船舶及び乗務員は今後、北緯37度15分、東経131度53分にあるリアンクル岩(竹島の英語名)の12カイリ以内に接近してはならない」と命じます。

すなわち、韓国人としては、この連合国による「マッカーサー・ライン」をもって「独島返還」がなされ、「1905年に始まった日本の植民地時代が終わって国土が元に戻った」と捉えているわけです。

●日本が「日本領」を主張する根拠

ところが、ここで重要な事態が起こります。すなわち、朝鮮半島の分断です。ソ連と米国の冷戦が朝鮮半島の38度線を一線としてぶつかり合い、1948年に南に韓国政府が、北に北朝鮮政府が成立することで、今度は米国の考えが揺らぐことになるわけです。

1949年11/14、米国の駐日政治顧問であったウイリアム・シーボルトは、本国に以下のような文書を送って「米国の利害」を主張します。「朝鮮方面で日本がかつて領有していた諸島の処分に関し、リアンクル岩(竹島)が、我々の提案にかかる第3条において日本に属するものとして明記されることを提案する。この島に対する日本の領土主張は古く、正当と思われ、かつ、それを朝鮮沖合の島というのは困難である。また、米国の利害に関係のある問題として、安全保障の考慮からこの島に気象及びレーダー局を設置することが考えられる」

1950年1月の「アチソン声明」に示されたように、米国の防衛ラインは日本までであって、韓国はその外でした。特に1950年6月に勃発した韓国戦争が、10月の中国の参戦によって情勢が悪化すると、米国は、もしも韓国が共産化された場合に冷戦の重要な拠点となり得る竹島を共産圏に奪われてはいけないと考えたわけです。

1951年8/10、米国のディーン・ラスク国務次官補は、いわゆる「ラスク書簡」を通して、「リアンクル岩(竹島)は日本の領土」という米国政府の意向を、秘密裏に韓国政府に伝達します。ただし、これは米国の意向の伝達であり、実際に領土問題の決定権がある連合国の間では、英国、オーストラリア、中国が、竹島を日本領とすることに反対していたために、「ラスク書簡」自体、それらの国々には公開も伝達もされず、それゆえ何ら決定権を持ち得ないものではありました。

しかし、結果的には、そのような連合国内の意見の相違ゆえに、1951年9/8に連合国が署名したサンフランシスコ講和条約の条文において、日本が権利を放棄する地域を明示した羅列から、「リアンクル岩(竹島)」の言葉が外されます。

まさに、1905年の竹島編入とこのサンフランシスコ講和条約の権利放棄地域から竹島が外されたことが、私たちの日本が「竹島は日本固有の領土」といっている決定的根拠だということになります。

いっぽう韓国側は、他にも実際には日本領から外された色丹島、歯舞群島などの名前がないことなどを理由に、「それはわざわざ書かれていないというだけだ」と主張します。それ以前の連合国の公式宣言「SCAPIN-667」が生きているのだから、そのように解釈するのが自然だというわけです。

ちなみに日本側においても、サンフランシスコ講和条約が1952年4/28に発効した際に、日本の毎日新聞社が、外務省の助けのもとに『対日平和条約』と題する解説書を発行していますが、そこには竹島を韓国領土と明記した「日本領域図」が掲載され、「竹島」は「SCAPIN-667」によって「日本政府の行政権が停止されることになった」と解説されています。そのような解釈は当時、日本においても成り立ち得たということになります。

●「韓国独立」の象徴である「独島」

そうしながら韓国は、今の日本人の多くが最も非難の思いを持つ一つの行動に出ます。

すなわち、このサンフランシスコ講和条約の「発効」以前である1952年1/28に、韓国は実力行使として竹島を韓国領に入れた「隣接海洋の主権に対する大統領宣言」、いわゆる「李承晩ライン」を発布し、竹島に警察を常駐させて「実効的占有」を始めるのです。それによってそれ以降、日本漁船の拿捕や銃撃による死亡事件など、さまざまな悲劇が生まれたことも事実です。

私たちは現在、それを「不法占拠」であると主張しています。しかし、韓国側は、当時は「日韓基本条約」締結前であったため、何の条約もない状態であり、その中での「宣言」と「実効的占有」は、いわば「不法」ではなく「無法」であって、「無法」状態によるこのような領土の決定方法は、アルゼンチンやチリなどの南米諸国が自国の領土確保のために取った方法とまったく同じ、国際的慣例に従ったものだというのです。

いずれにせよ、韓国人の立場は、第二次大戦の戦争当事国による講和条約云々以前に、何よりも「植民地時代の領土獲得はすべて元に戻らなければならない」ということなのです。

韓国人にとって、歴史的に日本の韓国進出は、1905年に韓国政府を牛耳る中で「独島」を日本領に編入したことに始まり、その年に韓国の外交権が剥奪され、その5年後に国がなくなってしまったため、「そこ」こそが国家独立の生命線だと考えているわけです。実際、そのような思いがあまりにも強いため、一般の韓国国民にとっては、そもそも日本が韓国の思惑だといっている海洋資源のようなものは眼中になく、いわばそれは「国をまた奪われるかどうか」という問題になっているのです。

それゆえ、韓国人にとってはこの“祖国独立の象徴”を、「領土問題」として国際司法裁判所に提出して、「実際はどうなのか?」を解決しようという考えもなければ、ただひたすら「韓国は独立国家だ」と天下に宣言するがごとくに、「独島は韓国のものだ」と宣言しているわけです。

●両国の一日も早い友情確立を願う

ちなみに、日本は1954年と1962年の2回、竹島問題を国際司法裁判所に提訴することを韓国に公式提案していますが、それ以降は一度もそれを行っていません。その理由として、1965年の「日韓基本条約」に竹島問題を盛り込むことができなかった、という事実があります。

当時の日韓会談の議事録によれば、当初、日本は、「竹島に対する主権に関する紛争を含めて」という文言、「両国政府間で解決できなかった紛争は仲裁委員会に付託される」という文言などを入れようとして、何とか竹島問題を両国間の紛争問題にする努力をしますが、その時、韓国国内で連日あまりにも激しい反対デモが起こったため、6/21、朴正煕大統領は「本件は韓国政府の安定と運命に関わる重大問題であり、もし韓国側として受諾し得る解決策がないならば、日韓会談を中止してもよい」という意思を伝えることとなり、結果、日本側は譲歩を余儀なくされるのです。

すなわち翌6/22、その文言は、「両国間の紛争であって外交上の経路を通じて解決することができなかったものは、両国政府が合意する第三国による調停によってその解決を図るものとする」という、一般的な紛争解決に関するものに変更されてしまい、竹島問題は事実上、両国の紛争問題の位置から外された結果となっているわけです。

以上が、韓国人の立場から見た「独島問題」です。

最後にいうならば、俳優ソン・イルグクさんは、母方の曽祖父が韓国では有名な独立運動家・金佐鎭(キム・ジャジン)将軍であり、母方の祖父・金斗漢(キム・ドゥハン)氏は、その生き様が大ヒット映画『将軍の息子』(1990)やドラマ『ワンチョ』(1999)、『野人時代』(2002)にもなっている「独立闘士の息子政治家」です。その長女であるお母さんも有名な現役与党政治家で、女優でもあります。ソン・イルグクさんが、初めて俳優として成功を収めた『朱蒙(チュモン)』の出演料2億ウォンをそのままお母さんに捧げると、お母さんはそのお金をそっくり使って中国の遺跡地に祖父・金佐鎭将軍の記念館を建てた、という話も有名です。

だから私には、彼がそのような背景を持っているという事実こそ、彼がこれまで日本のファンに注いできた「愛」がむしろ真実であらざるを得ないことの証拠ではないかと思えるのです。曽祖父、祖父、母親と続く関係と彼の孝行心を考えれば、そこには当然、複雑な思いがあり、その思いを越えて日本を愛するという「決心」をしないかぎり、これまでのような行動は決してできないことだったはずだからです。

ということで、あくまでも韓国人の「なぜ」を理解するため、韓国の視点から書きましたが、私個人の意見は、何より日韓両国の一日も早い友情の確立を心から願うばかりです。

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武藤克精

日韓比較文化学専門家/ 文化交流コーディネーター/ 日韓未来ハートタンク代表/ サムスン人力開発院講師/ 『サランヘヨ・ハングンマル』編集長

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