↑高宗が立てて現在に残る中国風西洋建築の「集玉齋」。
●なぜ、韓国を併合して「朝鮮」と称したのか?
高宗は、「朝鮮」最後の王(第26代)であり、「大韓帝国」初代皇帝です。
これまで世界に紹介されてきた韓国史では、高宗時代と高宗が率いた「大韓帝国」時代(韓国では「旧韓時代」とも呼ぶ)に対する評価は皆無でした。王以外の権力者による「勢道政治」が当時のすべてで、高宗の父・大院君と明成皇后(閔妃)の舅嫁間の権力争いだけがクローズアップされ、高宗はただ王妃に従うだけの無能な王のように語られたのが、これまでの日本の研究をもとにした当時の姿です。
ところが、それは意図的な歪曲でした。すなわち、それらがあったことは事実であったとしても、いっぽうで、それ以上に意図的に隠そうとしている高宗の功績があったわけです。李泰鎮教授の『東大生に語った韓国史』(明石書店)によれば、正確な資料に基づく事実は、かなり違います。
そもそもなぜ日本は、1910年の韓国併合の後で、国名(地域名)をわざわざ「朝鮮」に戻したのか。実際、「朝鮮」という国は「大韓帝国」成立と共にすでに存在しておらず、1910年の併合条約も「韓国併合ニ関スル条約」が正式な名称でした。すなわち、日本からすれば、「朝鮮」であってこそ、かつての清国との朝貢・冊封関係を根拠として「中国の属国だった」、「近代化の力がなかった」といえるのであって、堂々と中国と対等の「皇帝」を名乗った後の「大韓帝国」であっては困るわけです。
「韓国は自力で近代化できなかったので、日本が近代化してあげた」――これが、これまで日本が掲げてきた韓国併合の理由です。韓国人も、これまではすっかりそれを信じて、日本に国を奪われたことを恨んでも、電車に乗れば「日本によって敷かれた電車」だと思い、電灯を点ければ「日本によって敷かれた電気」だと思うしかませんでした。
ところが実際には、ソウルに電車が開通して運営が始まったのは、1899年5月(西大門~清涼里間)であり、韓国併合の11年も前。もちろん、まったくの自力によるばかりか、日本は京都に電車が開通したのが1895年なので、韓国より4年早いのですが、しかし首都に電車が走った年度だけで比べれば、東京は1903年であるため、ソウルのほうが4年早かったということになってしまうわけです。
1901年にアジア各地を旅行したドイツの新聞記者ゲンテは、韓国の近代化の様子を絶賛しながら、「まだ眠りから覚めていないと思っていた静かな朝の国の国民が、西欧の新発明品をはばかることなしに受け入れ、ソウル市内の藁葺き屋根の家の間をぬって、風のような速さで走る電車に乗ってあちこちを見物することができるなんて、どうして驚かずにいられようか」と綴っています。(『ゲンテの旅行記』1905年)
●観文閣に灯った世界文明の調和と平和の光
しかし、私がそれ以上に注目するのは、韓国における電灯の点灯です。
ご存知のように、そもそも電灯は、エジソンが1880年にエジソンランプ会社を設立して世界に普及し、日本では、1884年に日本橋の内閣印刷局で初めて灯ったのが有名ですが、韓国も同年、同会社と契約して、日本より3年遅い、1887年3/6に王宮である景福宮の中に初めて街灯として灯っています。
そこはどのような場所だったのでしょうか。1888年、そこには立派な時計塔を冠した2階建ての洋館「観文閣」が建設されます。国王が近代化の先頭に立つために、わざわざ、自らの王宮内に2階建て洋館を立て、そこに電灯を灯したのです。しかも、中国式レンガを使った中国風西洋建築として昌徳宮に建てられていた「集玉齋」も、1891年にここに移されており、韓国式、西洋式、中国式が王宮の中で調和していました。
「観文閣」の実物のほうは残念ながら、1915年に日本が「朝鮮物産共進会」を景福宮内で開く際に撤去されて、今は見ることができませんが、1984年に日本軍が景福宮を占領した時の様子を伝える日本の従軍記者の絵にしっかりと時計台と共に描かれています。また、いっぽうの「集玉齋」の立派な建物は、現在も景福宮に残り、当時の高宗の固い意志を伝えています。
韓国は徹底した儒教の国であり、どんな改革であっても、王が率先することで速やかに統制が取れます。王自らがそこで暮らしながら、当時の日本や中国のような覇権主義ではない、世界文明の調和と平和主義の理念を実践して見せたのが、その電灯の点灯に象徴されているわけです。
その精神が実のあるものであったという証しこそ、前回書いた、韓国がアジアで初めて関税自主権を実現したという、当時の高宗の外交成果であるわけです。それは歴史の事実としてはっきりしていますが、次回はそのことを詳しく書こうかと思います。
結論だけを先にいうならば、高宗が、韓国式、西洋式、中国式を調和させた慶福宮の中に灯した、1888年の電灯。私はそれこそが、アジアに灯った本当の近代化精神の灯火であったはずだ、と思っています。私は、それが今も灯り続けていることを信じているし、その灯火を中心として、もう一度私たちがアジアの文明の光を再出発させられた時に、真の世界の平和も、その輝きの中から出発するのだと考えています。
武藤克精
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